岡村和一郎

昭和45年7月23日 朝の御理解

  御理解 第88節
 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」



これは、えー、どういうことかというと、仲睦まじゅうということ。「ね」。家の中が、仲睦まじゅうなからなければならないという事。家を治めるということは、仲睦まじゅうしていけということだと。「ね」。しかも、仲睦まじゅうということは、家ん中に仲睦まじいという中から頂けれる感情です、「ね」。いわゆる、88節。というのは、開けた上にも開けていくということでしょうね。八十八。ま、ここは、私の考え方ですけどもね、そういうところにも、そうした神ながらな、あー、ことになっておるなと、今日は思わせてもらいました。仲睦まじいと、仲ようと行くことがですね、神様の心に叶うこと。それが次から次と、おかげになって行く基になる。いわゆる、八がいよいよ八になって、いよいよ広がることがいよいよ広がっていく。「ね」。親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代というように、繁盛になって行くということは、仲ようして行くということ。仲睦まじゅうして行くということ。そこんところを、今日の御理解の場合、そういうふうに説かれてあります。「ね」。家を治めよとか、悪い顔を人に見せないようにとか、ということは、仲良うしていく、一つの、こつだと。「ね」。教祖の神様は、私は、昨日、お道の新聞が参りまして、見せていただいとりましたら、仲ようせいという事を、こういう風に使うておられますですね。仲という字はこの真ん中の中でございますね、ちゅうですね。ようという字は御用の用ですね。せいというのは清らか。教祖の書き残されたものには、こういうのが、至る所に沢山出てくるでしょう。あの、金光大神をね、読ませて頂きますと。至る所に、こういうすばら、あーその、自分の知っておられるだけの漢字を、いわゆる、駆使して一つの言葉を作っておられますですね。中用清。「ね」。仲ようせいということ。字は、ちゅう、よう、きよいと書いてある。「ね」。だから、仲ようせいということは、私は思うた、これは昨日のご理解からいただきますとですね、中ということは、あー、出すぎもしなければ、引っ込みもせず、いわゆる、過ぎないということですね。中庸、丁度、真ん中、そういう人こそ真の人であり、真とはそういうようなことだと、いう事を昨日、皆さんに聞いて頂きましたら、この、仲ようせいと言うことの中にはね、そういう意味のことが書いてあります。えー、少し、大変良いことが書いてありますから、読んでみましょうかね、仲ようせいというとこを。これはあのー、結婚式に、いー、招かれて、お祝いの言葉をこの方が述べておられることを書いてあるのです。
えー、(右は?)たれとの中にも、まことを出させて頂きますと、清らかな、清々しい人間関係が生まれまして、年月が経つに比例して、段々と美しい、清らかな関係が出来、それが基で、良いものや良いことが、次々に生じて立ち行き栄えます。ということでございますね。えー、真とは、私は、至らないもの、この私は、何も分かっていないもの、凡夫という自覚でありまして、したがって、すみませんと思える、言える私ですね、という風にうたってあります。「ね」。真というのは、私は至らないもの。この私は何も分かってはいないもの。いわゆる、私は凡夫でありますという自覚。「ね」。それが、真である。ですから、したがって、すみませんと思える、または言える私ということ。ですから、何時もが、わか、そのー、済みませんが言えれ、「ね」。えー、至らぬ私が生かされていき、許されて生きるのですから、有難うと思える私です、と。「ね」。いわゆる、自分というものが、ギリギリ分からせて頂くころから、すべてが有難うなってくるという事です。「ね」。いわゆる自分自身、いわゆる凡夫の自覚、凡夫の自覚が出来ますところから有難うございますということ。至らない私でございますというところから、すべての中に、すみませんということになる。だからこの、ほんとに心からすみません、心から有難うございますという。私は、その生き方こそ、仲ようしていく、仲ようせいの、おー、根本になるものは、それだとこう思いますですね。清らかな清々しい人間関係が生まれまして、年月が経つに比例して、段々、美しい清らかな関係が出来、それが基で、良いものや、良いことが次々と生じて立ち行き栄えます。
今日私が、そこんところを、御理解88節、八十八ということで申しましたですね。「ね」。いわゆる、仲ようするということ、仲睦まじゅうするということは、今ここに、この方が言っておられますように、段々良い、有難い、清々しい、麗しい人間関係が、そこから、生まれてきて、そこから次々良いものや、良いことが生じてくると、起こってくると、こう言われる。それがやはり、今日私が、頂くところと、全く同じなんですよね。真とは私は、至らないもの、「ね」。私、えー、この私は何も分かってはいないもの。いわゆる、凡夫の自覚という事をいただいております。「ね」。そこでですね、今度は、あー、すみませんとか、有難うとか言えれる私に、というのは、いわゆる、凡夫の自覚が本当に出来なければならない。「ね」。この辺は、皆さん何時も頂いておられる通りですね。自分というものを、ギリギリ見極めるところに、ほんとに無力である自分、至らない自分、「ね」。足りない自分であるということが分かる。そこから、すべてのことに、済みませんが言え、有難うが言えれる。「ね」。
次に、出来ますことは、「ね」。「はい」と言うこたえで、こまめに用事をさせて頂くという姿勢でありますという事。ほんなら、私に出来るという事は、どういうことかというと、「はい」と言えれることだと、こう言うておられます。「ね」。こら、ここで何時も、素直という事について頂きますですね。私の、もし、ここに、家、蔵、財産という、うー、財産があるとするなら、これは、私の「はい」という言葉の中から生まれたというくらい、何時も申します通りです。「ね」。素直というのは、そういう風に、効用がありますですね。「はい」ということ。また私に出来ること。「ね」。いわゆる、凡夫である自覚が出来ましたらです。何にも、おかげを頂かなければ出来ない。ね。許されて生きているのであるから、有難うが出来るのであり、至らぬ私であるから、何時の場合でも、済みませんであり、「ね」。私にできる事は、ただ、全てのことを「はい」「はい」と言うて、こまめに動くことだという風に、ここでは書いてありますね。
「教え」、教えのおかげで、えー、先生から神様へ頼んで頂き、自分も神様へ頼まして貰うように、いー、しだしてから私も、前々より、まえまえよりは、少しづつ、右のように変わらせられましたと。そうなりましたら、ぼつぼつ、仲良しが出来始めました。まあ、六十歳を過ぎた男のささやかな体験上、仲ようせい、中用清(ちゅうようせい)ですね。仲ようせいこそ、夫婦仲も、嫁、姑の仲も、兄弟仲も、他人仲も、みな良くなりまして、幸福な日暮しの道と信じている次第です。というふうに書いてある。これは、夫婦仲だけではない、親子仲、いわゆる、姑、嫁との仲、または最後に他人仲までも、良くなると言うておられます。仲ようせいということは、そういう、例えば、仲という事を、私が昨日頂いた真ということと、この方が言っておられることと、ちょっと、同じ意味に言うておられますから、そこんところを申しますですね。いわゆる、私共が、真を持って、真心を持って、えー、いくという事。それにはね、私共の、いわゆる、凡夫の自覚というものが出来なければならない。そこから、済みませんと、有難うが言えれるようになる。そういうことはです、これは、夫婦仲ではなくて、すべての仲が良くなるという事。親子の仲、兄弟の仲、ね。嫁姑の仲、いわゆる、他人の仲までも良くなるという。そこから、ぼつぼつ良いことが起きてきて、良いことが生まれて、いわゆる今日の八十八ですね。広がる上にも広がっていく、繁盛のおかげになっておりますというのである。
仲という事を、私は真と。ね。ようせいと。これを、凡夫の自覚、ね、を持ちまして、こまめに「はい」「はい」と用いて頂く。これは、用という字ですね。「ね」。使うて頂く。そういう姿勢。それは、私で出来ることは、その事だけだと、こう言われる。「ね」。「はい」と言えれる姿勢だと。「はい」「はい」と人に用いてもらう、いわば姿勢。「ね」。せいといえば清らかなこと。そこから、清らかな美しい人間関係が生まれてくるという事。「ね」。真、素直、そして、限りなく美しゅうならして貰えれる、そういう、それをもって、私は、仲睦まじゅうとか、仲ようということは言えるんじゃないかと思います。どうでも、その家の中にですね、ただ、抑えて辛抱しておるとか、こらえておると、いったようなものじゃなくてですね、一人一人が「ね」。至らぬのは私という自覚。いわゆる、凡夫である自覚。私で言えることは、「はい」ということだけ。そういう、用いて頂く指針。そこから、清らかな、いわゆる、せいですね、仲ようせいとこう言う。教祖様がお使いになっておる言葉の中には、例えば、そういう深い意味合いがあることを、改めて今日、鉢合わせて頂いて、また、昨日読ませた頂いた新聞を見せて頂いて、それを思うのでございます。「ね」。どうでも一つ、仲ようして行く。「ね」。仲ようしようち思うけれども、相手がいけない、出来んから、と言うことにもなりましょうけれども、相手はどうでも良い。私自身が、その気にならせて頂くところからです。例えば、心に、いわば、済みませんとか、有難うございますが一杯ある心の状態ほど、人間の幸せなものはありません。「ね」。そういうものに、みんなが、見習うて来るようになります。「ね」。ですから、そういうところを一生懸命一つ努めさせて頂いて、しかもそれを真をもって、私は洗っていく。いわゆる、仲ようする。出すぎもせず、引っ込みすぎもせんという、生き方をもっておかげを頂いてまいり、そこんところを神様に御願いをしたり、先生にお取次ぎを願うていっておりましたら、というふうに、新聞に書いておられる方も、そんなことを言うておられます。「ね」。一遍にというわけには行きません。けども、家族中がもし、勢を揃えて信心して、家族中のものがその気になったら、素晴らしいことだと思います。しかもその、仲ようせいということの中には、八十八という、いわば恩典がある。「ね」。次第にものが整うていく、次第にそこから良いものが生まれてくる、生じてくると言うておられる。確かにそうです。家の中が、仲睦まじゅういく。そこから、いわゆる繁盛のおかげが頂かれる。しかもそれが、親の代よりも子の代というように、いわゆる八十八、広がった上にも、広がっていくほどしのおかげになる。どうでもひとつこの、仲ようせいという、「ね」。この内容を内容としての、仲ようせい、仲睦まじくというおかげを頂いて、私共も、この世での、ほんとの有難い、極楽の思いをさせて頂くことは勿論ですよね。仲ようあるということは。と同時にです、神様にも喜んで頂く、いわば、心の状態であり、一家の状態であるのでございますから、どうぞひとつ、これは、嫁にやるときだけの、嫁ごのことだけの事ではありません。ここにもありますようにね、夫婦仲のことだけではありません。親子の仲も、いわば、姑、嫁との仲も、ね、兄弟仲も、または、他人の仲までも良くなって行くおかげ。「ね」。そこんところを一つ本気で、腹を決めさせて貰うて、仲ようせいの、教祖様のお使いになっておられる、仲ようせいという内容を頂かせて貰うて、いよいよ繁盛のおかげをいただいていかねばならんと思いますね。どうぞ。